むかし読んだ本の話 ”サイゴン・タンゴ・カフェ”

題名に引かれた
当時は今の職場と違う場所で働いていたの。そこで私は上司からパワハラ(今考えればセクハラも含まれていたわね)を受けていて、精神的にも疲弊していた時期があった。近くに大きな1級河川が流れていて、川面を眺めながら、飛び込んだら楽になれるかなぁとか考えていた。その職場では、私の前任者がメンタルで休職したので、私に白羽の矢が立ったの。前任者以外でも同じ課の方で休職者が1名いたわ。異動前から違和感はあったけど、原因はすべて同じ男。今であれば確実に訴えられていると思うけど、当時はそこまで厳しくなく会社も放任状態。それどころか逆に出世をさせる低モラルの組織だった。(しばらく後に案の定、会社が社会的に非難を浴びる不祥事を起こした。)私はいろいろな方の力を借りて、なんとか異動の1年後に今の職場を変わることができた。当のパワハラ男はしばらく同じ職場にいたが、噂によると会社に居づらくなって転職したとのこと。
でも、パワハラの当時は当然ながらお昼ご飯は喉を通らず、毎日お昼休みになると息の詰まる職場を飛び出して駅前の大きい本屋さんに駆け込んでいたわ。その時間は私にとって心の休まるひと時だったの。ある日、細かいことは覚えてないけどブックフェアが行われていて、そこに並べられている本の背表紙を眺めていたら目に飛び込んできた本があった。それが、中山可穂さんの「サイゴン・タンゴ・カフェ」との出会い。そして中身も裏表紙の内容紹介も見ずに、この題名だけで購入を決めたわ。
ちょうどどこか遠くに行きたい気分だったからなのかもしれないわね。ベトナムとタンゴってイメージ的には結び付かないけど、こうやって言葉を並べてみると、なんか哀愁というかノスタルジーというか、ものすごく感じるのよね。

 

サイゴン・タンゴ・カフェ
読了日は2014年12月21日。内容は5つの短編から構成されてる。舞台は、ブエノスアイレス、東京、そしてホーチミンシティとハノイ。すべての物語のBGMとしてタンゴが流れている。そこに、不倫、近親姦、同性愛などのセンシティブな人間関係が絡み合う。主人公はどの話も女性だが、その他の登場人物も含めて、みんな心のどこかに闇を抱えている。もっとも現実の世界でも、心に闇を抱えてない人間など存在しないかもしれないけど。
表題作のサイゴン・タンゴ・カフェは一番最後に出てくる短編。ベトナムの交通事情の取材のためにハノイに来た孝子は、ふと迷い込んだ旧市街の奥深いところにひっそりとある「サイゴン・タンゴ・カフェ」を偶然見つけて何気なく入った。そこは老齢の日本人マダムがいつもタンゴを流している店だった。ちょうど休暇も兼ねてハノイに滞在していた孝子はそのカフェに通ううちに、マダムが20年前に日本から突如失踪した作家、津田穂波であることに気付く。そして、孝子の上司、恵比須一平は以前の津田穂波の担当編集者であり、現在もその行方を捜していた。そして孝子は穂波に失踪した原因を尋ねると、穂波は失踪時の担当編集者であり一平の部下でもあった狐塚真樹との話をポツリポツリと語り出した。そこには作家と担当編集者、同性愛の関係が絡み、現在と過去の虚実入り混じった駆け引きでもあった。
現在のベトナムホーチミンシティの旧名がサイゴン。だけどサイゴン・タンゴ・カフェはハノイにある。日本で地方にあっても東京〇〇というお店があるのと同じ感覚。そして私が最初に題名をみて気になったタンゴとサイゴンの関係、つまり作中では穂波がタンゴと縁遠いハノイにいる理由も話の最後の方で明らかになる。
これは単純な同性愛の話ではなく、書く理由を失い苦しむ作家、書かせたい編集者、女性同士の同性愛、三角関係など様々な人間関係が凝縮されている。そして読後に感じたわ。これは、まるで、登場人物がそれぞれの哀しみを抱えながらも人生を踊っている話ではないのか?踊る時々のパートナーとの間で、息を合わせ、気持ちを読み、駆け引きして、全身で会話をする。そしてこの作家は、題名だけで読む前の私にそういった哀愁の波を伝えたんだと感じる。当時の私もその波を受けやすい心境にあったのじゃないかしら?音叉が共鳴するように。

 

本場のタンゴ
今でこそLGBTであるセクシャルマイノリティの方も声を上げやすくなったと思うけど、この話は2008年当時はパワハラやセクハラの被害と同じように社会的に認知が鈍かった時代だと思う。しかもこういう話は、いじめと同じで時として加害者も実は別の形で抑圧を受けている被害者であったりすることもある。多く人が幸せに暮らせる社会を望んでいるにもかかわらず、うまくいかないことが多い。すこしでも相手の苦しみを想像できるか否かが鍵だと私は思っている。
残りの4つの短編も、同じように読み応えのある、哀しい中に明るさのある話で、踊るように読むことができた。
この本の影響で、いつかはブエノスアイレスで本場のタンゴを見てみたいと思うようになった。日本でも、A.PiazzollaのLibertangoが有名になって、バンドネオンで演奏される楽曲を聞く機会も増えた。でも、観衆も含めた場の雰囲気は本場じゃないと味わえないと思う。それにしても、男性ダンサーと踊って、クルクル回されるのはどんな感じなのかしら?

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サイゴン・タンゴ・カフェ  中山可穂(著)  角川書店刊(角川文庫)