むかし読んだ本の話 ”幾度目かの最期”

衝撃的だった
18歳の時書いた作品で芥川賞候補となり、そのわずか3年後の21歳の大晦日に、列車に身を投げて自殺した作家がいた。しかもある作品を書き終えたその日に。そのことを知って衝撃を受けたのと同時に、その作家と作品を知りたいと思った。その最後の作品とは『幾度目かの最期』。読了日は2014年3月22日。今から7年以上も前だけど記憶に強く残っているわ。
そして、その作家の名前は、久坂葉子さん。本名は川崎澄子さん。神戸川崎財閥創業家かつ貴族のご令嬢。亡くなったのは、1952年最後の日、まだ戦後の影が漂っている時代。
御家柄だけではなく、久坂さん自身も才能豊かで、『落ちてゆく世界』の改作『ドミノのお告げ』で、1950年の芥川賞候補となったほどの作家だ。
地位も財力も才能も持ち合わせながら、生きる辛さを感じて苦しんだ女性。そこにはひとりの若い女性の気持ちの揺れと、精神的な自由を求める姿が見え隠れする。

有名な親をもち、有名な祖父、曽祖父をもち、貴族出の母親をもっているんです。その悲劇は、どうせ、このつづきにかきますから、今ははぶきましょう。私を死にいたらせる一つの原因にでもなるんでしょうから。一番大きな原因と云えば、勿論、厭世でもなく、愛情の破局ですけれど。(久坂 2013 p.188)

そう、彼女は複数の男性との間で、その気持ちの激しさで自らの心を焦がしながら恋愛をつづけた。。
以降、ネタバレにお気を付けてくださいね。

 

幾度目かの最後
たぶん、賛否、好き嫌い、評価が分かれる作家・作品だと思うの。
現代だったら「文春砲」が火を放ち、炎上するパターン。それに男の方から見たら、自殺の原因が破局だと公に発表されるなんて、女は恐ろしい生き物だ、となるでしょうね。ただ、内容は決して男を責める内容ではなく、むしろ自己の闇を晒しているように思える。
家庭においても、大きなお屋敷の中で、互いに関心の薄い家族のつながりを感じる。理解者は熊野の小母さんのみ。
恋人との破局、家族との希薄な関係、そして自己からの嫌悪によって絶望した結果の自死、なのかしらとも思う。読んでいて、なにか得体の知れない、息の詰まる、どす黒い空気を感じるのは私だけかしら?
それでも、私はこの作家と作品が印象に鮮烈に残っている。そう、まるで太宰の作品のように。
本作品の冒頭で作者は以下の通り書いている。

私は小説書いてるのじゃない。正直な告白を、真実を綴っているのです。だから、ここにかかれたことは、すべて、まちがいなしに本当なんだ。本当の私の苦しみで本当の私の自責なんです。(久坂 2013 p.186)

思い出すのは、漱石の「こころ」に出てくる先生の遺書。だけど、こちらは熊野の小母様宛に書いた本物の遺書でもある(作家自身はもちろん死後に出版されることを想定して書いている)。
そして、三人の男性との恋愛が書かれている。一人目が妻子のある「緑の島」、二人目がお金がない「鉄路のほとり」、三人目は大人の対応ができる「青白き大佐」。
じつは「緑の島」との不倫が原因で、自殺未遂を以前に起こしている。それ以前も何回か自殺未遂歴があり、そのため「幾度目かの最後」なのである。
自殺未遂を起こした後も、結局「緑の島」とは別れられないまま、新しい恋人「鉄路のほとり」ができてしまう。「緑の島」と「鉄路のほとり」の魅力を次のように書いている。

それは夏の太陽みたいな、輝かしい猛烈な愛情を求める気持と、静かないこいのような沈んだ青色のような愛情を求める気持と。(久坂 2013 p.186)

そして、二股をかけている自己嫌悪の気持が強くなってくると、「青白き大佐」のところへ行ってしまう。

そのうち、私は青白き大佐と結婚したら、幸せになれそうな気がしたのです。彼は、とても大人だから、私が何を云おうと、何をしようと、眺めてくれるんです。私は神経をつかわなくて済むし、気楽だろうと思ったのです。そして、私と青白き大佐は、遂に婚約しました。(久坂 2013 p.187)

この婚約は、家族公認というわけではなく、当人同士の勢いで取り決めたものと思われる。

 

命を燃やしながら
彼女は、愛されるのを待つタイプではなく、自ら愛するタイプ。そしてその感情が激しいゆえに、文字通り命を燃やしながらの恋愛となる。

私のような、過激な、情熱のかたまりみたいな女は、恋愛して、そのまま結婚することは、とても出来ない。恋愛を生活に結びつけられないんですの。(久坂 2013 p.188)

そして、三股をつづけていることによる各男性に対する裏切りの気持ち(特に「青白き大佐」とは軽い気持ちからとはいえ婚約している)から自責の念が強くなっていき、次第に自暴自棄になってくる。自分の気持ちがコントロールできないもどかしさ。私は不倫や二股の経験はないけど、進んではいけない方向に勝手に身体が流れてしまう、もどかしさは私にも共感できた。

平気で。私は、もう自分をうんとみにくくして、自分で苦しんだらいいんだと思ったのです。自分の心、感情と、自分の行動との、ずれがひどくなる一方。不均衡な不安定な、いやあな気持に自分をおいて、自分に対して、唾をはきかけ、自分に対して、あしげりして、何といういじめ方。(久坂 2013 p.193)

紆余曲折ありながら、それでも最後には「鉄路のほとり」と一緒になりたいと決心するが、「鉄路のほとり」からなぜか冷たい仕打ちを受けてしまう。結局、男の方も大人になりきれない、不器用な人、似た者同士だったのかもしれない。

私は、鉄路のほとりを愛しています。でも、それが真実だということを証明する何ももっちゃいません。感じ合うことが出来なければおしまいです。私は、彼と共に生活はしてゆけまいと思いました。疑いや誤解の連続になるでしょうし。 《中略》 もうおしまい。はっきりおしまい。私は、何も行動する勇気なくなりました。だけど死のうとする心の働きはあるんです。(久坂 2013 pp.233-234)

さらには、家庭や仕事の悩みも重なってくる。

家庭のこと。そうです。私はもう、家庭でのジェスチュアをつづけることが不可能になって来ていたのです。疲れて来たのです。それによい仕事が出来ないことも、書けないことも原因だったのです。生きてることにしたら、又掩いかぶさってくる。それらのこと。それらの重さ。(久坂 2013 pp.217-218

 

そして最後に
それでも、彼女は最後まで希望を見つけようとする。この気持ちは私も含めてわかる人は多いのではないかしら。

もう彼とのことは終ったのだと結論が出ているのに、私の心では、終らせたくないという働きかけがあるのです。電報か電話が若しや少しおそくなっても来やしないかと。或いは、仕事の都合で私の郵便を見ていないのではないかと。だけど、やっぱりもう駄目ね。(久坂 2013 pp.234-235)

そして彼女は、自殺の決意を固めるかのように逃げ道を自身で塞いでいる。

小母様、私はこれをよみかえしはしません。よみかえす勇気はないのです。これは、私の最後の仕事。これは小説ではない。ぜんぶ本当。真実私の心の告白なんです。だから、これを小母様によんで頂いたら、或いは、雑誌に発表されたら、私は生きてゆけないでしょう。(久坂 2013 p.235)

最後に彼女は覚悟を決めたかのように静かに締めくくっている。

小母様、私は静かな気持になれました。書いてしまった。すっかり。何という罪深い女。私は地獄行きですね。 《中略》 
十二月三十一日午前二時頃  (久坂 2013 pp.235-236)

引用文献 : 久坂葉子.2013.『幾度目かの最後 久坂葉子作品集』.講談社文芸文庫講談社

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幾度目かの最後 久坂葉子作品集   久坂葉子(著)   講談社刊(講談社文芸文庫
他に短編”落ちてゆく世界”も収めた作品集。久坂部羊氏による解説、写真、年譜、著書目録が掲載。